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コラム
2017年10月23日

丹後ちりめん

与謝野町語りべの会会長 青木順一さん、羽賀織物 羽賀信彦さんに聞く

機織(はたお)り…、それは母なる鼓動

ガチャン、ガチャン、ガチャン…。

機織りの音は何に近いか、ご存じだろうか。正確に言えば、音というよりそのリズムであるが。

答えは、「母の心音」。

丹後ちりめんの産地である与謝野町、その歴史や産業を伝承する「与謝野町語りべの会」の青木順一会長は言う。「与謝野町の赤ちゃんは、生まれる前から機織りの音とリズムをお母さんの心音として聞いてきた。生まれた 赤ちゃんが寝ている横で、母親は機織りに精を出す。その音が止むと、赤ちゃんは起きて泣き出してしまう…、そんな逸話が残っているんです」。

「ちりめん」は、およそ400年前に中国(明)から堺に伝わった。 その後、武士や公家が纏(まと)う衣装に欠かせない撚糸(ねんし)技術を用いた絹織物が京都の西陣で盛んになる。そこに注目した丹後の絹屋佐平治らがその技術を習得し持ち帰り、「丹後ちりめん」の歴史がスタートする。

すぐれた技術を用いて、与謝野町では主に「白生地」を生産してきた。つまり、素材の産地であったのだ。西陣、加賀、十日町といった染物の産地に出荷され、着物となる。最盛期(昭和40年代後半)には、年間1000万反織っていた。ほとんどの家がなんらかの工程に参加し、まちには朝から晩まで、機織りの音がこだまする、まさに 「ちりめんの街」。その後の洋装化と景気の低迷により、現代はわずか30万反ほどに減ってしまったが、主要産業であることに変わりはなく、従来の概念にとらわれない自由な発想で、この伝統技術の継承・発展に努める若手も登場し始めた。

羽賀信彦さん、38歳。

和装着尺や染め帯地などに使われる紋入りの白生地を主として織ってきた「羽賀織物」の代表である。昭和27年創業の羽賀織物の三男として生まれ、高校卒業後、違う世界に身を置いていたが、10年前に帰ってきた。「ちりめんを取り巻く環境は、高齢化もあり、あまり良いとは言えません。しかしこの伝統は絶やすわけにはいかない」と。

何もわからない手探りの中、羽賀さんのチャレンジは機織以外から始まる。白生地はあくまで素材である。最終的にどう加工され、誰が着ているのか、作り手には見えない。だからこそ、「機屋が、素材ではない、製品そのものに関与できないか」と思い立つ羽賀さん。

まずは、歳の近い機屋でグループを作り、沖縄の紅型染作家と交流することから始めた。そこで、織と染の職人6人でグループを形成し、新しい作品を生み出す経験を得た。また、別の取組みでは、若手織物職人と異業種クリエイターがコラボレーションする機会として与謝野町が立ち上げた“YOSANO OPEN TEXTILE PROJECT”に参加している。

与謝野町内の機屋の中には若い感性を生かす機運が高まり、そのなかで創作された小物雑貨、風呂敷、ネクタイなどが人気を博し始めている。

羽賀織物の機場(はたば)には十数台の小幅織機が並び、数名の織職人が力強く作業をしている。その音色とリズムは、昔も今も変わらない。

 

現在のちりめん街道の様子
羽賀さんの制作した白生地をもとに染色人とのコラボで仕上がった作品

出典:『京都文化力プロジェクト2016-2020 機関誌 vol.1』「五感で知る、京都。」

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